1.先史時代の中近東中近東における人類活動の痕跡は、旧石器時代にさかのぼります。各地の洞窟遺跡から発見された化石人骨には、狩猟、採集用のさまざまな石器が伴います。そして新石器時代になると、中近東では他所にさきがけて農耕・牧畜が始まりました。野生ムギ、野生ヤギ、ヒツジが次第に有用な栽培種穀物、家畜となりました。当時の生活廃棄物が長年のあいだに積み重なり丘状となった遺跡(テル、テペ、ホユック)で、地域や時代に特徴的な土器を伴う生活跡を見出すことができます。 |
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鳥文四耳壺 エジプト ナカダII期(前4千年期) 高さ24.2cm |
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| 上エジプト先王朝時代後期のゲルゼー文化に特徴的な無頚壺です。胴部が器高の中心よりやや上方にあり、大きく張り出すため、平底ながら不安定です。肩部には穿孔された縦長の突起が4個ついています。おもな文様のうち、器口部を巡るジグザグは川、胴部の1/3周にわたって連なるものは、ダチョウを表現したものです。 | |||||||||
2.粘土の文明シュメールティグリス、ユーフラテス両河の下流域シュメールでは、紀元前3000年ごろより都市(国家)が興りました。神殿を中心とする社会、経済は、その資源の乏しさを周辺地域との活発な交易でまかなっていたことが、各種工芸品やあるいは粘土に刻まれた文字記録(楔形文字)資料から知られます。「歴史はシュメールにはじまる」ともいわれるほど、中近東の宗教、文学などのみなもとをシュメール文明に辿れるものは少なくありません。 |
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3.アッシリア紀元前1千年前半ごろ、メソポタミアの北と南にアッシリア王国とバビロニア王国がそれぞれ覇権を確立しました。ニネヴェ、ニムルード、バビロンなどは、『聖書』にもみられる王国の都跡で、とりわけ19世紀以降、人々を中近東の古代史に誘い、発掘対象地となりました。こうして得られた王国由来の戦利品や貢物、あるいは軍事遠征を記す楔形文字碑文史料などは、『聖書』やギリシア古典などの記載事項と符合するところがあります。 |
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象牙製飾り板
ニムルード(イラク) 前9〜8世紀 高さ11.4cm 1949年、M.E.L.マロワンら「英国イラク考古研究所(British School of Archaeology in Iraq)」は新アッシリア帝国の都のひとつ、ニムルードにおける発掘調査を再開しました。そしてシャルマネセル。世(前859-824年)造営の、当時「エ・ガル・マシャルティ(兵器庫)」と呼ばれていた一種の軍事施設から、大量の象牙細工品を発見しました。 |
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4.ファラオの時代のエジプトピラミッドや神殿などの遺跡に代表される古代エジプト王(ファラオ)の時代とは、ナイル川流域に展開した、およそ紀元前3100年に始まる初期王朝時代から紀元前332年末期王朝終焉までの時期を指します。ヒエログリフ(エジプト象形文字)で記されたパピルスや、隣接地域との関連史料などから、通常、国威充実発展期(古、中、新王国時代)と、内乱や外敵、異民族侵入などによる国威衰退混乱期(第1,2中間期)とに区分されます。 |
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5.ローマ時代の中近東マケドニア王アレクサンドロス(紀元前356-323年)による東方遠征や東国漢の中央アジア進出は、東西交渉を盛んにし、ペトラやドゥラ・エウロポスなどが隊商都市として栄えました。パルミラもまた交易による富の集まったシリア砂漠中のオアシス都市でした。壮大な神殿や各種石造建築物が今なお残っています。また壮麗な地下墳墓からは、しばしば中国産の絹布が見出され、「シルク・ロード」の中継地であったことを物語っています。 |
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| 婦人像浮彫 シリア 2〜3世紀 高さ50.2cm シリアのパルミラで作られた婦人の胸像です。右肩の上部に「ワハバッラートの娘アクメー」と書かれた銘文があります。 |
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6.ペルシア帝国の栄華古代イラン系民族のひとつ「メディア」が紀元前612年アッシリアの都ニムルード、ニネヴェを滅ぼし、キュロス世(紀元前559-530年)がバビロニアの都バビロンを陥落(紀元前539年)させて以降、アケメネス朝ペルシア帝国は古代中近東諸文化を締め括ることになりました。帝都ペルセポリス炎上(紀元前330年)によってしばし途絶えたイラン系文化は、パルティア以後サーサーン朝ペルシア(226-651年)によって再興されました。 |
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| グリフォン環状飾板 イラン 前6〜5世紀 径35.5cm |
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7.イスラームの抬頭 7世紀にアラビア半島のメッカで預言者ムハンマドが、新たな宗教イスラームの教えを説きました。その後この教えを信奉する人々(ムスリム)は、瞬く間にサーサーン朝ペルシアやビザンツ帝国などの周囲の大帝国の領土を席巻し、西はスペインから東は中央アジアにいたる巨大な地域をその支配下に収めました。 |
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| 白釉藍彩パルメット文鉢 イラク又はイラン 9〜10世紀 口径21.5cm |
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8.陸の道とニーシャープール中近東と中国を結ぶ陸の道としては、中央アジアを通るシルク・ロードが有名です。751年、現在のキルギスタン領タラス河畔で、アッバース朝と中国唐王朝が戦い、紙の製法が西に伝わったとされるのも、このシルク・ロードが舞台でした。シルク・ロードの街道沿いには、隊商(キャラバン)が、宿泊、食糧や水の補給そして商売をするための多数の中継都市が発展しました。現在のイラン北東部の都市ニーシャープールもその一つで、色彩豊かな陶器の製作地としても知られています。 |
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| 多彩釉刻線文署名付鉢 イラン 9〜10世紀 口径34.4cm |
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9.海の道とフスタート中近東と中国とを結ぶ道がもう一つありました。それはインド洋を船で旅する海の道でした。イスラーム時代になるとこの海の道が、盛んに使われるようになり、各地に交易の中心となる港が発展しました。香辛料や織物など多種多様な商品が船で運ばれましたが、中国から西に輸出された商品の一つに中国陶磁器がありました。それらの陶磁器は、各地のインド洋沿岸の遺跡で発見され、エジプトのカイロ近郊のフスタート遺跡では、9世紀から近代にいたる多数の陶磁器が出土しています。中国陶磁器が運ばれたこの海の道を「陶磁の道」ともいいます。 |
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10.トルコ系の王朝セルジューク10世紀末にトルコ系民族の族長セルジュークは、カスピ海、アラル海方面から南下してイスラーム教徒(ムスリム)となりその勢力をのばしました。その甥トゥグリル・ベクは、1038年にニーシャープールに入城し、セルジューク朝の基礎を築き、1055年にはバクダートに入り、アッバース朝のカリフから史上はじめてスルタンの称号を受けました。セルジューク朝の宮廷ではペルシア語が使われ、文学・芸術・学問が発展しました。ニーシャープール出身の詩人・天文学者オマル・ハイヤームが活躍したのもこの時代です。 |
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11.十字軍とエジプトエルサレムを占領したセルジューク朝のキリスト教巡礼者迫害を発端にするとも言われる十字軍運動は、1096年に始まりました。エジプトのアイユーブ朝(1169-1250)のサラーフ・アッディーン(サラディン)、マムルーク朝(1250-1517)のバイバルス1世が十字軍と戦いました。両王朝ともエジプトとシリアをその領土とし、首都カイロでは商工業が発展しました。中近東文化センターが発掘調査しているシナイ半島のトゥール遺跡からは、バイバルス1世が発行した金貨(ディーナール)が出土しています。 |
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12.モンゴルの侵入とイル・ハーン朝13世紀、チンギス・ハーンの孫フラグに率いられたモンゴルの侵入は、中近東に大きな混乱を招きました。イランに侵入し、さらに西進したモンゴル軍は、1258年にはバクダートに入城し、アッバース朝を滅亡させました。その後フラグは、イラン北西部の町タブリーズを首都としてイル・ハーン朝を建国したのです。イル・ハーン朝は、中国の元朝を宗主国としていたため、この時代には中国的な龍や鳳凰などの文様が陶器や金属器そしてタイルに見られます。 |
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13.サファヴィー朝のイラン1501年イスマイール1世によってタブリーズで建国されたサファヴィー朝は、トルコ系のセルジューク朝、モンゴル系のイル・ハーン朝やティームール朝と異民族支配にあまんじてきたイランにとって久々のペルシア系の王朝でした。1588年に即位したアッバース1世の時代がサファヴィー朝の最盛期で、遷都したイスファハーンは「世界の半分」と称される黄金期を享受しました。オランダ、イギリス、フランスなどと友好条約を結び、国際貿易が繁栄したのもこの時代でした。しかし1722年アフガン軍にイスファハーンを占領され、サファヴィー朝は崩壊しました。 |
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14.カージャール朝のイランサファヴィー朝の軍隊を構成していたトルコ系の部族カージャールのアーガー・モハンマドが、1785年に建国した王朝で、テヘラーンを首都としました。イギリスやロシアとの政治的・経済的関係が深まり、文化や芸術でもヨーロッパの影響を強くうけました。1925年軍務大臣であったレザー・ハーンがカージャール朝を廃して、パフラビー朝を建国しました。 |
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| 色絵人物文タイル イラン 17〜18世紀 11.5×13.0cm |
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15.ビザンツ帝国(395-1453)ビザンツ(ビザンティン)という名称は、東西に分裂(395)したローマ帝国の東部分につけられた通称である。アラブ・イスラーム勢力の拡大・侵入により古代地中海世界が解体し、西ヨーロッパ、ビザンツ、イスラームの三世界が成立した。都はコンスタンティノープル(現イスタンブル)。1204年第四回十字軍の侵入により国力は衰え小国に分裂し、1453年にはオスマン帝国に都を奪われ帝国は滅亡した。 |
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16.オスマン帝国(1299-1922)ルーム・セルジューク朝の崩壊後、アナトリアの北西部にオスマンI世を始祖とするムスリム・トルコ系の一君侯国として誕生。衰退するビザンティン帝国にとって代わりバルカン半島、アナトリアを領有した。一時期、アナトリアに進軍してきたティームールに破れ(1402)帝国は瓦解するが、程無く立ち直り、周辺諸国を征服しアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大帝国を建設した。最盛期には、ウイーン遠征が二回試みられたがいずれも失敗した。コーヒー、チューリップなどがヨーロッパに伝えられたのもこの頃である。 |
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